昭和四十五年一月二十五日 朝の御理解

X 御理解第九十九節 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」


 御理解九十九節の中に「真がなければ、人は助からぬ」というところがございますね。九十九節の中に「真がなければ、人は助からん」と。私は、そこのところを勿論、人も助かりませぬが、真がなからなければ自分自信が助からんと。真がなからなければ、勿論人は助からんが、その前に真がなければね、自分自身が助かることが出来ない。今日は、そうゆうテ-マでお話しをしたいと思います。
 真がなければ、自分自信の助かりが出来ん。お互い助かりたいと思うて、信心をしております。まぁ、いうなら、おかげを頂きたいと思うて信心をしております。おかげを頂くとゆうことは、私は、助かるとゆうことにつながる訳です。
 ですから、このおかげという見解は、大変お道では広いんですけれど、ひとつひとつの願いというか、目先目先のおかげというか、そうゆうおかげにも、やはりつながる〔ん〕ですけれども、私どもが、おかげを頂いて有り難いとゆうおかげなんです。日々のおかげを頂いて有り難いと、心の底から有り難い生活を送らせてもらうということなんですね、おかげとゆうのは。
 有り難いなぁと、そうゆう、いわゆる生かされ方というか、お生かしを頂いておることは、間違いないのですけれども、こうも苦しいなら、もう死んだほうがましといったような生かされ方をしておる人もあるのですからね。
 ですから、同じ生かされるのですから、有り難いなぁ、勿体ないなぁと。どんなに思うても有り難いと、有り難いと、どこを押しても有り難いと思えれるおかげ。そうゆう助かり、そうゆう助かり方。
 だから、そうゆう助かりを求める以上です、これは、もう絶対、「真がなければ、人は助からぬ」と教祖様御自身言うておられ、この九十九節の最後に「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」と、一番最後に言っておられますね。此方っていうことは、教祖生神金光大神その人のことです。此方は無学でも、別に才覚がある訳でもない、別に学問がある訳でもないけれども、皆おかげを受けておると。いかに、やはり、無学であっても、何がなくても、自分自身が助かられるかとゆうこと。人が助かる程しのことですから、自分自身が助かっておらなければ助かりませんよね。
 どうも、ひとつ器量とか才覚ではない。自分自身が本当に助かるおかげを頂くために、これは、もうだから、氏子皆んながその気になればおかげが受けられる。「無学でも」とおっしゃると言うことは、私のように何にも知らない、何にも出来ない者でもという意味でしょう。
 これがなからなければ幸せではないとか、頭がようなからなければ、幸せになれないとかとゆうようなことではない。皆んなが、だからおかげを受けられるということ。
 そこで、真がなければ人は助からぬと言うことは、真がなからなければ、私ども自身が助からんと言うことです。そこで真とは、真とはと言うことになるのです、ね。私どもは、その真を求め求めしていくと言うことなんです。
 私は、今朝方お夢を頂いておった。『それが、どうゆう意味か、私にもよく<分からなかった。>久富勇さんですね、久富勇さんが、お夢の中に表れておられてですね、こうゆうことを言われるんです。「たいてい一生懸命におもてなしをしたつもりだけれども」とこう言われる。何か、お客さんか何かがあってるような感じですよねぇ、ですから。「たいてい真心を込めて、言うならばおもてなしをしたつもりだけれども」と。
 だから、そこんところに、そのお客さんは、まだ満足してござらんじゃったとゆったような感じなんです。たいていおもてなし〔を〕したけれども、大変おもてなしをしたら大変喜んで頂いたとゆうのじゃなくてですね。おもてなしをしたけれどもというところは、いうことは、おもてなしをしたけれども、お客さんは、あんまり喜ばれなっかたとゆうような、まぁ感じです。それは、お客さんとなんとも言うことじゃな<い>。ただ、「それだけ、たいていおもてなしをしたけれども」とこう言うておられる。
 次に、また頂いたのはねぇ、ある、これは御霊様です。その方が話しておられるのですよね。いわゆる御霊の世界に、その方が行って、「いよいよ合楽の信心の素晴らしいことが分かった」と。その合楽の信心の素晴らしいことが分かったことをですね、何とかって言われましたけれど、一寸私忘れましたけど、意味がですね、いつもここで言う、「いわゆる合楽で成り行きを大切にせよ」と言われること。もう、これは、あの世この世を通して素晴らしいことだという意味のことを言われるんです。成り行きを大切にするという〔ん〕じゃなくてですね、成り行きとの対決というような意味〔のこと〕を言われるのですね。』
 自然に起きてくる様々な事柄、問題というものとの対決なのだ。また、その成り行きを大事にするということは。これはですから、皆さん、もうあの世この世を通して合楽の、私が言っておる成り行きを尊ばせて頂くということ。成り行きを大切にするということは、もう絶対のものなんです。
 これはもう、それこそ天地の続く限り、この真理は変わりません。それが真だからなのですよ。真と言うことは本当なことと言うこと。いやそれはですね、私は真と言うならばね、天地の働きそのものが真だと思うんです。それをもっと言うと、天地の働き程実意丁寧なものはないということです。お道でいう実意丁寧神信心ということはですね、だから、そのままが真なのです。実意丁寧神信心ということが真なのです。一つのことに、実意を込める。しかも、それを丁寧に、しかも、生神金光大神様〔を〕唱えながら、実意丁寧神信心ということ。
 天地程、一分一厘間違いのない働きを、しかも、実意にですね、なさっておられる、そういう働きをなしておられるものは、天地の、いわば働きというか、程、実意なものはないのであり、だから、それを言うならば天地の働きそのものが真なのだと。
 そこで、私どもがですね、生神金光大神のお取次ぎを頂いて天地金乃神様を拝ましてもらう私どもにとってはです、金光大神のお取次ぎを頂いて真をもって天地の働きを受けていくということだ、〔ということに〕なるでしょう。
 そこに、その真と真の火花が散るのです。火花が散るというと、ちょっと大袈裟ですけれども、まぁ私どもにとってはそうなんですよね。ゆるやかに、または烈しく、本当に対決とゆう言葉を使ったが一番いいようにです、様々な問題がある。難儀がある。それに立ち向かう時の私どもの心とゆうものは、確かに火花が散る程しのものを、こちら自体がもたなければ立ち向かわれないのです。
 いわゆる「元気な心で」と、こうおっしゃるそれなんです。勇んだ心、勇みたった心なんです。言うならば、生き生きとした心と言うのです。パチッと叩かれる、「痛い!」と言う前にですね、「すいません!」と言う、それなんです。火花というのは。
 自分自身というものが分かれば分かる程です、確かにね、信心の稽古をさせて頂いて自分自身が分かってまいりますとね、どんなに叩かれよう、叩かれ方をしてもですね、「あ痛!」と言う前に、「すいません」が先に出るんです。また、出らなければ嘘です。
 これ程、信心するのにどうしてこんなことが起こったじゃろうかというようなことでは、だからもう、全然真じゃないことが分かります。
 どういう嫌なことがあってもいうならば、見ても聞いてもそういうことが起こってもです、それは、私どもの信心が、いわば生き生きしたものが無い時ですね。「あぁ痛よ」が先に出るんです。それから、不足になるんです。
 例えて、例を申しますと、そこに何かが置いてあった。けつまづいた、「あぁ痛、こげん所に置いとくもんじゃから」と、もう次の不平になっておるようなもんです。自分が注意をすりゃ、けつまづかないのにですよねぇ。
 だから、信心させて頂くということはね、真を追求していくこと。ですから、結局、真の人になるということに精進するわけですね。そしていわゆる、真の道をいよいよ歩こうというんです。真づくめですよね、金光様の御信心は。
 真がなからなければ人が助からないことは勿論、真がなからなければ自分自身が助からない。
 その霊神様が言っておられるようにね、「合楽の信心の素晴らしいことはです、もう、あの世この世をかけて成り行きを大事にする、成り行きを尊ばしてもらうということ程、素晴らしいことはない。これは、こちらへ来てから改めて分かった」という意味のことを話しておられるんです、御霊様が。こちらへ来てちゅうことは、お国替をしてあの世へ行って、なおかつ、なおかつじゃない、いよいよそれが更に深く分かったと。
 私は、それが素晴らしいと言うことは、それが真だからなのです。天地が真である。天地の働きそのものが真であるならば、私どもの働きそのものも真でなからなければならない。そこに真と真との出会い、火花が散る程しのことになり、そこから真の道がついてくる。
 久富勇さんの、私はそのお知らせを頂いて、「たいてい大事にしたと思うけれども」と言っておられるのは、ところがお客さんの方は、あんまり機嫌がようなしに帰らしゃったというような感じですねぇ。ですから、ここに、久富勇さんが感じられなければ、これは、久富勇さんということじゃあない。私ども、皆んなのことなのです。
 皆さんも御承知のように、久富さんの信心は、まぁ合楽では、合楽ではですよ、まぁ一級品でしょうねぇ。まぁ、ある意味では人の誰でも真似はでけん、しかも家族夫婦そろうてですからねぇ。その合楽では、いわば一級の人がです、だから成り行きを大抵尊ばせて頂いておられる。そこにお客さんがみえた。お客さんというのは、難儀な難儀なお客さんがみえた。だからその難儀をです、本当に尊ばせて頂いた。また、それを有り難く頂いたと思うておる自分はつもりだけれども、それをお客さんの方は、サ-ビスが悪かったちゅうごたるふうで帰っとんなさるといったような(笑)感じなんですよ。
 ですから、もっともっとそこんところを追求してです、本当にお客さんが帰られる時に、「大変なお世話をかけてすみません。もう本当に有り難うございました」と言うて喜んで帰られるような、いわばもてなし方というものが、まぁだ、あるということが分かります。
 久富勇さんですら、あれだけ、例えば様々な問題、去年なんかはもう、難儀のいうならば連続だったですね、久富さんのお宅は。それを、もうひたすら元気な心で合掌して受けてゆかれておるかに見えた。自分自身としても、たいてい大事にしてきたつもりではあるけれども、肝心要のお客さんは喜んでござらなかったとするとです、もっともっと思いの込めようが足りなかったということになるのじゃないでしょうか。
 ですから、そこにもう徹底した私は、頂き方というものがね、いわゆる痛い思いをした時にです、今も申しすようにけつまずいて足を痛めた、鴨居で頭を打ったと、そん時に、「あぁ痛よ」と言う前にです、「すいません!」と言うのが、まず先に出る信心。
 「あぁ痛よ」ち言うちから、もう反対に鴨居の方どん叩きよるような人がある。鴨居はどうもしとらんとに、ね。こっちが頭をこう下げとりゃあ、いっちょん打たんとばってん、こう横着なふうして行きよるけん、ガツッと打っとる。そして、[あぁ痛よ」と言うちから、鴨居どんくらせよる。
 そういう生き方では、ですから全然真の無いことなのです。ですから、天地程の真はない。その真をです、神の心とするなら、神の心を心としての生き方が金光様の御信心なのですから、私どもも真になろう。そこで、私どもがです、ここ二十年間それに取り組んできた、成り行きを尊ばせて頂く、成り行きを大事にさせて頂こうという生き方がです、それが、そのまま真だと。
 けれども、その真はもっともっと追求しなければならない。久富勇さんをしてあれだけのことをあれだけの受け方でおいでられたのにもかかわらず、まだまだ、お客さんの方は満足してござらんというところをみるとです、もっと本当にすっきりしたものが、まだ生まれていなかった。
 頭を打った、「あぁ痛よ」とは言わんじゃったばってん、「すいません」が、すぐは出らなかったという感じ。いっとき時間がかかったという感じ。そこんところを、即、すいません!これなんです。困ったことが起こった。そらどうするのと、あわてふためくのじゃない。どうして、そんなことがって言うのじゃない。もうその時既に、そこでです、すいませんという頂き方。そして、それを信心で処していこうとすること。
 私はそういう場合ですね、すいませんというのが出た時に、もうその人は助かっておると思うですね。不平が無い、不足が無い、痛いことは痛いけれども、その痛いことに対して、すいませんが出とる。
 私どもの行く手には様々なことが、それこそ待ち構えておるようにありましょう。それは様々なことなのです。良いこと、悪いこと、けっして同じようなことがありません。ですから、よっぽどそこんところが、臨機応変にですねぇ、どのような応用問題が出ましてもです、それを解いていけれるだけの日頃の稽古をしっかりしとかなければならんということが分かります。同じことじゃぁないのですから。
 私どもが、そういう、例えば受け方、そのことが真であると。そこに真の道がついてき、絶対の真のしんのおかげという真のおかげというのが、その道を、そのル-トを辿って流れてくるのです。しかも、それは限りがないのです。そういうおかげを合楽の皆さんは目指しておられなければならん。それのいわば先頭をきらして頂いておるのが、いわばここでは私なのです。私ども、まぁぎこちないものであるに違いありません。もっと垢抜けしないものでありますけれども、一生かかってでもここんところを極めていこうということになるのです。
 そこで、起きてくる様々な問題をです、例えば、先程私が対決と申しましたが、どんな問題でもです、それに対決するということはどういうことかと。もう、その場で、打って取るという程しのおかげを受けるということが第一です。対決する。その場で打って取るということ。ということは、どういうことかと、もうその場で即、有り難うございますという頂き方なんです。
 これはもう、対決、そのままその場で打ち取ったと同じことです。もう、こちらも血みどろになってから、へとへとしとる(笑)といったもんじゃあないです。もう、その場ですっきり問題をですね、その場で有り難うございますと受けれる信心。これは、その場で打ち取ったもの。けれども、その場では打ち取れないものもある。そこんところが、いわゆる五十八節なのです。
 御理解五十八節「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食と言うても、もらいに行かねば乞食ではない。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」と。
 どのような場合であっても、どのようなことに直面してもです。それこそ、乞食じゃと言われても、泥棒じゃと言われてもです。神様が見ておいでなのだからとゆうこと<なんです>。
 これは、その場で打って取るとゆうのじゃないですね。この辺のところが、成り行きをですね、神様だけが御承知の世界に生き抜くのだと、信心とは。私は、そうゆうような言葉をもって、いつも申します。
 信心とは、人がどういう、そん時赤面(あかづら)弁慶になって、「私は、こうですよ、ああですよ」と言うこともなあもいらん。「俺がいつ泥棒したか」と言うこともいらん。「俺が、いつ乞食をして回ったか」と言うこともいらん。そこんところをです、私どもが、「時節を待って」と、こうおしゃる時節を待つ。
 しかも、その時節を待つと言うてもです、はあ、よくよく考えさせて頂いたら泥棒と言われるはずだ、乞食だと言われるはずだとゆうようなものを、内容的に分かってくるんです。
 その時期を待っていくうちに、自分が研かれ改まらして頂くのである。その根底は、神様が見ておいで、神様が御承知だからと言うものなのです。
 私は、そうゆう生き方頂き方が真だと思いますね。ですから、泥棒だと言われても、俺がいつ泥棒したかとゆうような頂き方は、もう、絶対真じゃないことが分かります。その場で腹〔を〕かいたり、その場で赤面(あかづら)弁慶になって言い訳をするとゆったようなことは真じゃない。
 黙って受けて、そして、私どもの心の中に言い聞かせることはです、神様が御承知、神様が御承知とゆうことなんです。神様が見ておいでだから〔と〕、これなんです。そこに、慰められるものがあるでしょう。だから、その神様を本当に知らなければ、そうゆうことになってこない。
 そこで、いわゆる神様を本当にいわゆる、実感的な生きた神様を把握することが問題だとゆうことになります。その生きた神様をです、私どもは生きた心でお取次ぎを願い、生きたお取次ぎの働きが生きたおかげになって現れてくる。
 はあ神様は、生きてござる。神様はござるなぁと、日頃そうゆうことから分からして頂いて、その神様が見ておいでなのだから、誰が、ここで、どうこう言うことがいろうかとゆうことになる。
 その場で打ち取るとゆう真と、時間をかけて頂かせてもらうとゆう真。私どもがね、真々と言うけれども、私は、そこんところが言うならば、いい加減にされる。しだごだにされて、真の道を歩いておるかとか、真の信心をしておるとは言えないと思う。
 「真がなからなければ、人は助からん」と、こう教祖様は、おしゃっておられる。「此方は無学でも、人は助かっておる。」なあにも出来ない自分でも、人が助かっておるとゆうことは、教祖様が、いかに真の人でおありになったかと、また、その真を求め続けられたお方であったかということが分かるのです。
 そこで、その真の人になってしまわなければとゆうことではなくてです、そんなら私が、二十年前、現在よりかいくらか幼稚だったと思うんですよ、二十年前は。現在だって、私が、真の人と自分では思うてはおりません。
 けれども、やはり真の人を目指さして頂いておる。そして、これが真だとゆうことをです、合楽の場合はっきりとここに打ち出してあるのです。
 天地の働きそのものが真であって、その真を私どもが真で受けていくとゆうことは、どうゆうことかとゆうことをです、私どものこれから先の様々な問題をです、様々な事柄をです、それをひとつ、真ひとつで受けていこうと。
 真とは、真とはとゆうことを、もう皆んなが追求しております。だから、まぁだ真がありましょう。まぁだ、たくさんありましょう。けれども、これだけは間違いがないとゆうこと。
 それは、私が夢の中である御霊様からの話を聞いておって、合楽の一番素晴らしいことはです、成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にするということだと。これは、もう、あの世この世をかけて素晴らしい。それは、そのままが真だと。だから、私どもは、そこからでも真の道に入ってゆかなきゃいけません。
 そこで、真をもっての受け方をです、いわゆる五十八節と、いわゆる対決とゆうことで申しましたですね。対決する。どうゆう例えば相手が出ましても、その場で打ち取れれるものは、その場で即、そのことが有り難いと受けれることだと。
 ところが、私どもは、なかなか、そうばかりはいけないことがあって、歯痒いこともありやぁ、情けないこともありやぁ、恥ずかしい思いをすることもある。なかなか有り難いと出らない。
 けれどもです、神様が見ておいでだからと、時間をかけてその真をいよいよ追求していくとゆう意味のことを申しましたね。そこにです、私どもの人間の真実の助かりを見い出してゆかなければいけません。目先、目先のことが成就するということも、やはり助かりにつながりますけれども、それは、いわばいうならば束の間の助かりであって、永遠の助かりにはつながりません。
 あの世この世を通しての助かり、永遠の助かりを求めての、私どもが、真の道を歩いておるのでございますから、その真を追求をしていく。まず、自分の身の回りに起きてくる事柄を真で受けていこう、真で見よう。そうゆう、私どもが、その真を追求してゆくところに、いわゆる、真がなければ人が助からないことは勿論のこと、真がなからなければ私自身が助からんのだ。私自身が助からずして、世のお役に立とうとゆうことは、おこがましいとゆうことになる。私自身が、まず助かること。その私自身が助かって、その真をもって世のお役に立たせて頂こうとゆうのでありますね。どうぞ。